アンザック局は、多くの墓地や慰霊碑プロジェクトの設計・開発において小規模単位で協力した。そのため建築家が初期のコンセプトデザインを考える一方、メンバー総出で専門知識を駆使し、書類作成や管理など膨大な作業量に対応することを余儀なくされた。
アンザック局の手法は英連邦戦争墓地委員会(CWGC)の基準に準拠した設計を生み出したが、それぞれの現場で微妙な差異も生じた。
アジア太平洋の様々な地域でCWGCの厳格な英国基準を維持することは困難だった。これらの建設方法に慣れていない現地労働者には綿密な監督が必要であり、適切な建築資材の調達が困難になることも少なくなかった。そのためアンザック局はシンガポールから窯焼きの粘土レンガを、メルボルンから青銅製の建具を輸送することもあった。
戦後、独立したばかりのインドネシアでは内戦が続き、同国における墓地建設は特に困難を極めた。スラウェシ島のマカッサルCWGCは最終的に放棄され、1961年に墓はアンボンCWGCに移築された。
対照的に、横浜のアンザック局の建築家たちは、地元の建築家や業者と実りある関係を築くことができた。彼らは日本の資材と工法を積極的に採用した。結果、CWGCの手法と日本の文化的伝統が独自に融合し、地域環境にしっかりと根付いていった。
占領国の条件を満たさなければならなかった。そして彼らはそれを素晴らしい水準で成し遂げた。
英連邦戦争墓地委員会(CWGC)の庭園の多くは、意図せずして戦争の残酷な影響、そして課題の残る歴史を持つ現場を覆い隠してきた。一部の歴史家は、アンザック局の建築家たちは保土ヶ谷の美しい自然を、戦没者の遺族をなだめるために利用したと主張する。
横浜の美しい庭園、そして世界中のCWGC墓地の庭園は、それでもなお何百万人もの訪問者に慰めを与えてきた。また、戦争のトラウマについて深く考えさせ、かつての敵同士の和解を促してきた。
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